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概要(3つの海堡)
歴史
第一海堡
第二海堡
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第三海堡復元!

江⼾湾海防計画

■江⼾湾海防を説いた「海国兵団」1786

 鎖国日本の扉を初めて叩いたのは帝政ロシアでした。18世紀に入ると、蝦夷地(エゾチ、北海道)にロシアの南下が始まりました。天明6年(1786)に著された林子平(ハヤシシヘイ)の『海国兵談(カイコクヘイダン)』では、海国日本における海防を説き、江戸湾海防の必要性を説いています。

■台場建設の提案、江⼾湾海防計画 1839

 韮⼭(ニラヤマ、静岡県)の代官だった江川太郎左衛⾨(エガワタロウザエモン、1801〜55)は、天保9年(1838)、江⼾幕府より江⼾湾巡⾒を命ぜられました。江川は、天保10 年(1839)、復命書を幕府に提出しました。その中で、江川は観⾳崎〜富津岬を結ぶ線を最重要な防御線とし、これを護るために観⾳崎・⾛⽔などに台場砲台を設けるほか、富津岬の海中に台場を建設することを提案しています。江川の相談を受けた洋学者:渡辺華⼭(1793〜1841)は同年、江⼾湾海防計画図を作成しています。この中では、富津岬の海中台場や品川台場の案もすでに⽰されています。

 
江川太郎左衛門英龍 自画像
嘉永3年(1850年)頃
(財)江川文庫所蔵
  渡辺華山:「江戸湾海防計画図」
天保10年(1839)
佐藤昌介:「渡辺華山「諸国建地草図」について」

 

 そうこうするうちに、嘉永6年6⽉3⽇(1853.7.8)、⽶国のペリー提督が率いる東インド艦隊が浦賀に来航しました。もはや⼀刻の猶予もなりません。

品川台場

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■ペリー来航翌年に完成した5箇所の台場 1854

 ペリー来航後、幕府から再び江戸湾海防を命じられた江川太郎左衛門は、観音崎〜富津岬の防護線とともに江戸の最後の護りとして品川台場の建設を提案しました。これに基づき、江戸湾最初の人工島が築かれることとなったのです。ただし、水深は1.9〜3.5mの浅い海中でした。台場建設は、江川の設計・施工監督のもと、わずか2年足らずの突貫工事で行われ、安政1年(1854)、5箇所の台場が完成しました。

■現存する2 つの台場

 品川台場は、結局、実用に供されることなく終わりましたが、3番台場・6番台場が現存し、東京臨海副都心のウオーターフロントの一部として都民に親しまれています。

 3箇所の台場の撤去の際は、頑健な造りのため、大変な苦労をしました。幕末当時の優れた建設技術を物語っています。

 
「品川台場配置図」
嘉永6年(1853)7月(推定)
東京都:『東京市史稿市街篇第四十三』
1956.3.30
  現在の品川第三台場
2000.11.11撮影

東京湾海防計画

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■明治政府の東京湾海防計画

 明治新政府は、帝都「東京」を護るため、東京湾海防計画に取り組むこととなりました。東京湾海防に属することは軍事機密であったため、多くのことは伝わっていませんが、さいわい大日本帝国陸軍築城部:『東京湾要塞築城史』が残されておりますので、主としてそれによりながら経緯を辿ってみることとしましょう。

■⼭県有朋による⽇本列島要塞化 1871

 明治から大正にかけて陸軍元帥として陸軍に君臨した山県有朋(1838〜1922)は、明治4年(1871)、『軍備意見書』を提出し、日本列島の要塞化を主張しました。これを実現するため、山県はお雇い外国軍人を活用しました。明治6年(1873)には、陸軍省のお雇い外国軍人でフランス国の陸軍中佐マルクリーに東京湾を視察させ、『我国海岸防御法案』を提出させました。続いて明治8年(1875)には、フランス国の陸軍中佐ミュニエー、工兵大尉ジュールダン、砲兵大尉ルボンに『日本国南部海岸防御法案』を提出させました。この中では、第一防御線(観音崎〜富津岬〜猿島)、第二防御線(品川付近)を護るための砲台建設を提案しています。これらはいずれも海岸や島に砲台を築くものです。

⼭県有朋陸軍⼤将
イラストレイテッド・ロンドン・ニュース 1894.10.6 号
⾦井圓:『描かれた幕末明治』
1986.12.15

「東京湾口防御図」
明治23年(1890)(推定)
『現代本邦築城史第二部第一巻 東京湾要塞築城史附録』
国立国会図書館所蔵

東京湾要塞の建設

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■第⼀海堡、第⼆海堡、第三海堡の建設はじまる(1880〜)

 明治13 年(1880)、陸軍省は観⾳崎第⼀砲台と第⼆砲台の建設に着⼿しました。これは明治時代最初の砲台建設⼯事でした。その後、東京湾⼝部には、⾸都東京と横須賀軍港を護るため、24の砲台が造られていきました。これらの砲台群は、東京湾要塞といわれています。第⼀海堡、第⼆海堡、第三海堡は、東京湾要塞の中でも観⾳崎〜富津岬〜猿島の防御線をより強固にして、敵艦の東京湾の侵⼊を阻⽌する⽬的で海中に築造された砲台です。

■東京湾海堡建設までのさまざまな検討

 一方、陸軍の内部には、海堡ではなく、外国軍艦の侵入を防ぐための湾口堤防の建設を唱える声もありました。この間には、明治13年(1880)、3〜4トンの石で堤防を築き、波浪に対する安定実験を行ったりしています。お雇い外国軍人の意見を鵜呑みにせず、色々な検討を行っていることが分かります。ともあれ、幕末の江川計画に始まり、明治初期のお雇い外国軍人の計画、陸軍内部のさまざまな検討を経て、ようやく東京湾海堡の建設が始まるのです。 

東京湾海堡建設にたずさわった人たち

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■設計と施⼯にたずさわった⼈たち

 東京湾海堡建設計画の初めから活躍したのが陸軍技師の西田明則です。とくに難工事となった第三海堡工事では、明治25年(1892)4月から明治31年(1898)12月までは西田、明治32年(1899)4月から40年(1907)11月までは陸軍技師の伴宜、それ以降の防浪堤建設工事は陸軍技師の田島真吉が計画・設計・施工全般の担当者でした。なお、実際の施工に当たったのは、日本土木会社・大倉土木組・藤田組などであり、日本土木会社・大倉土木組で工事に従事したのは金森鉦弥・今井善八郎・小島喜作・中村宗太郎らでした。

■東京湾海堡に⼀⾝の栄達をなげうった⻄⽥明則

 西田明則は、岩国(山口県)に生まれました。江戸時代の末、文政10年11月23日(1828.1.9)のことです。西田家は下級武士とはいうものの岩国藩の普請方・測量方を勤めており、明則の祖父は錦帯橋の修理を担当する技術者でした。安政3年(1856)、29才で家督相続をし、藩の普請方・測量方を受け継ぎました。仕事がら和算に長じており、それが技術の基本となっていたのではないかと推測されます。また、維新前に漢字廃止論を唱え、英学を学んだと伝えられており、きわめて革新的な人だったようです。明治4年(1871)、44才の時、山県有朋に招かれ、上京して兵部省に勤務することとなり、明治5年(1872)、工兵大尉になりました。その後建築家として活躍し、東京鎮台(軍団)の兵営、士官学校、靖国神社の建築などに従事します。

  東京湾海堡に関わるのは、明治13年(1880)、陸軍参謀局の海岸防御取調委員になってからです。明治14年(1881)10月26日には、富津海堡(第一海堡)を含む湾口砲台の工事費の積算を行い、山県参謀本部長にあて、『東京湾口砲台建築費御下付ニ付上申』を提出しました。

 大正11年(1922)の『西田明則君ノ紀念建碑趣意書』では、「氏は東京湾海堡工事完成のため、一身の栄達をなげうち、陸軍技師となった。海堡基礎の構築に際しては、堤頂が海上に現れるまでは毎朝3時、4時に横須賀の自宅を出て、帰宅は深夜11時に及ぶことがしばしばであった。その間、小船に乗って石材運搬船を指揮し、台風の被害に遭うことも数知れなかった。」と、その刻苦勉励ぶりをたたえています。また、ときには自ら潜水服を着て海底の基礎を検査することもあったと伝えられています。

 
⻄⽥明則
陸軍⼯兵少佐
⼩坂丈予⽒所蔵
  晩年の⻄⽥明則
⻄⽥実⽒所蔵

瞑想詩劇 海堡技師
詩⼈の岩野泡鳴は、明則をモデルにした『瞑想詩劇 海堡技師』
(明治38年11⽉28⽇発⾏)を発表しています。
冥想詩劇「海堡技師」の表紙
国⽴国会図書館所蔵

⻄⽥明則 君ノ紀念建碑計画書
「⻄⽥明則君ノ紀念建碑計画書」
⼤正11 年(1922)
⻄⽥実⽒所蔵

⻄⽥明則君之碑
「⻄⽥明則君之碑」
明則の偉業をたたえるため、横須賀市の⾐笠公園に
「⻄⽥明則君之碑」が建⽴され、⼤正12年(1923)、⼭梨陸軍⼤⾂が
列席して除幕式が挙⾏されました。
2001.2.23 撮影

 西田明則は陸軍技師として、あるいは嘱託として、明治36年(1903)、76才まで海堡建設に従事しましたが、明治39年(1906)5月21日、78才で亡くなり第三海堡の完成を見ることはできませんでした。

 横須賀市の聖徳寺のしんばか(新墓)に西田家の墓地があり、「海堡を望み見ることができる場所に墓を建てて欲しい」という遺言に従い、その一隅に西田明則の墓が東京湾海堡を望んで建っています。

■海堡建設で殉職した⼈夫の追悼碑 ⼤乗寺(富津市)の碑

 海堡建設に際しては、技術者だけではなく、多数の人夫が施工に従事しました。
 明治34年(1901)に建立された富津市の大乗寺の「遭難者追悼之碑」は、第二・第三海堡工事で死亡した6人の人夫の追悼碑です。

 
●西田明則の墓
(聖徳寺新墓/横須賀市)
2000.10.19撮影
  ●遭難者追悼の碑
(大乗寺/富津市) 
2000.11.7撮影

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