横須賀港

直轄施工のあゆみ

横須賀港の魁

 嘉永6年米国使節団ペリー率いる黒船が浦賀沖に来航し、開港を迫っていた。
 元治元年徳川幕府がフランス技師レオン・ウエルニーを招へいし、当時の勘定奉行小栗上野介忠順に命じ、横須賀村に製鉄所(造船所)を建設する。その規模は、埋立地74,000坪(約24ha)、船渠、波止場、護岸、燈台等の港湾施設を含め明治4年に完成した。
 その後、明治から昭和20年の永きにわたり、久里浜港、長浦港、横須賀港は軍港として整備され、人々の目から遮蔽されていた。
 昭和20年終戦とともに横須賀、浦賀の一部は米国に接収されたが、秘密のベールに包まれていた長浦港、横須賀港、久里浜港の一部が大きく存在を現し、人々に身近な港としての整備が始まった。

(上)開港〜昭和20年、(下左)黒船来航、(下中央)横須賀港一覧絵図、(下右)日本最初のクレーン

長浦地区

 長浦港は、戦災を免れた倉庫荷役桟橋等の膨大な陸上設備が脚光を浴び、昭和21年接収施設の一部が返還されると同時に緊急食糧受入港となり同年より全額国費で応急桟橋の築造、臨港道路の整備に着手した。
 その後増加する貨物に応じるため、昭和23年より-9m岸壁(函塊式)153m、同(桟橋式)63m、およびこれに伴う護岸・埋立・前面泊地等を昭和32年までに整備している。
 さらに昭和39年・40年において-9m岸壁の延長上に-10m岸壁(桟橋式)を整備し、現在に至っている。

(左)昭和21〜41年、(右上)工事中の長浦岸壁(昭和24年)、(右下)現在の長浦港(平成11年撮影)

新港・平成地区

●平成地区(旧安浦地区)
 昭和年代に入り、建設資材の取り扱い基地として、水深5.5m岸壁3バース(うち1バースは耐震強化岸壁)及び水深4.5m岸壁2バースの施設を建設し、昭和59年より着工し同地区の地先海面58haの埋立を行った。一方、防波堤についても昭和59年より着工し平成4年に完成した。
 平成地区に隣接する馬堀地区において既存のコンクリート護岸にかえて、親水性に富み、安らぎを創造する護岸(延長1,650m)の高潮対策整備事業に平成12年度より着工し、平成18年3月に完成した。(直轄海岸保全施設整備事業)

●新港地区
 新港地区第一突堤は、昭和41年に着工、昭和49年に完成した。
 水深10m岸壁2バースと水深7.5m岸壁1バース、水深5.5m岸壁2バースと、平成7年度に完成した水深4.5m岸壁5バースである。

(左)整備前、(右)整備後

久里浜地区

 昭和初期以降、海軍の新しい施設の拡張先として久里浜湾が注目され、横須賀軍港の副港として小船艇の基地及び軍需品の補給基地とする改修工事が計画され、昭和16年より着工し、港湾としての第一歩を踏み出した。
 昭和20年8月の終戦を迎え工事なかばで改修工事は中止されたが、当時すでにあしか島・千駄ヶ谷崎間に外防波堤間に外防波堤の一部(約650m)、軍需部岸壁135m、固定起重機二機、対潜学校、海軍機雷実験部や防備隊等の敷地として約13万坪の埋立が完成していた。
 終戦後の昭和21年より、昭和29年にかけて既存の施設を利用した大型漁船の係留施設の建設を行った。昭和28年には運輸省第二港湾建設局横須賀港工事事務所が設置され、昭和36年に第一次港湾整備五カ年計画が策定されたことにより、本格的に久里浜地区の港湾整備が促進された。

(左)久里浜港第一次五カ年計画、(右)昭和16から20年

出典:京浜港直轄施工100執念記念誌 港のあゆみ(京浜港湾工事事務所 平成12年3月発行)
 (※一部時点修正)

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