横浜港
直轄施工のあゆみ
横浜港の魁
嘉永7年3月の日米和親条約に基づき安政5年6月、日米修好条約が調印され、神奈川は開港されることになり安政6年3月から開港場の建設に着工した。神奈川の一部とされた横浜村の中央部に神奈川運上所(現在の県庁所在地)を建設し、その北海岸には長さ60間(110m)、幅10間(18m)、天端高さ水上1丈3尺(4m)の石積みの上に芝土手5尺(1.5m)の石積突堤2本が築造された。この突堤は後に西波止場(現在の大さん橋基部の「象の鼻」付近)と称され横浜港港湾施設の原型となる最初の施設である。
安政6年6月2日開港と同時に横浜は瞬く間に発展し、文久3年には従来の波止場には改良も加えられ、東側の突堤は直線から波除堤の機能を持たせた曲線状となった。
築港計画の系請 〜最初の修築工事までの経緯〜
明治新政府は港湾の施設整備の重要性を痛感し、欧米の外人技師を招き港湾の調査、計画、修築に当たらせることとした。 明治3年のキャプテン・ブラオンによる深浅測量を皮切りとして、内務省傭長工師ファン・ドールン(オランダ)、工部省灯明台機械方頭ブラントン(イギリス)に横浜港最初の港湾計画の策定をさせた。以後、オランダとイギリス両国の技師による技術対立に加えて、 内務省、工部省、さらには外務省等政府要人の政治的な激しい確執が繰り広げられた。 最終的には内務省推薦のデレーケ(オランダ)案、外務省が推すイギリス退役陸軍工兵少将H・Sパーマー案が審査され2ヶ月に亘る閣議の論争の末、明治22年3月パーマー案の採択が決断された。
第一期修築工事
横浜港最初の修築工事は明治22年8月、神奈川県庁内に横浜築港掛が設置され、H・Sパーマー(内務省土木局顧問土木技術師)の監督のもとに、同年9月に着工された。
工期は4ヶ年、財源はアメリカ政府から返還された下関事件の賠償金が当てられた。
主要な施設としては東水堤、北水堤の両堤と、帷子川の濁水を港外へ導く馴導堤を築造し、併せて港内を浚渫し船舶停泊地を確保した。
さらに西波止場の先端に鉄桟橋(大桟橋の前身)を設けて荷役作業を容易にした。
本工事は、我が国港湾史上画期的な設備を備えた港への修築工事といえる。
工事は、 船舶機械や材料の納入遅延、災害の発生、北水堤のコンクリートブロックの亀裂発生と、その原因究明等により、予定から3年後の明治29年5月に完成した。
この間、H・Sパーマーは明治26年2月、病により工事の完成をみずに死去、後任には内務省第一区土木監督署長・石黒五十二がの兼務で引き継ぎ工事を完成させた。
第一期海面埋立工事
明治28年、日清戦争以降の経済の発展に伴い外国貿易が活発化したことから、税関貨物停滞の改善を図るため、税関地先海面埋立による税関拡張計画が大蔵省から前内務省土木技監兼土木局長古市公威工学博士に嘱託され、策定された。
工事は内務省の管轄を離れ施設管理及び運営上、最も関係のある大蔵省(税関)の直轄工事として施工されることになった。当初計画は陸岸に接した凸字形(突堤一本)であったが地質調査の結果及び船舶の大型化に対応するため凹字形の島状に変更された。
また、工事は明治32年から五ヶ年事業として着工したがその後台風による東・北水堤の被災、潜水函沈没、さらには日露戦争勃発の影響により遅れ、新港埠頭の東半分及び万国橋を完成させて明治38年末に完了した。
第二期海面埋立・陸上設備工事
海面埋立工事は一部未了で打ち切られる情勢にあったが、横浜市の工費の一部を負担するという強い要請により、政府は既定海面埋立計画及び陸上設備の完成を目途として明治39年4月に再開した。
工事は大蔵省臨時建設部、同省大臣官房臨時建築課と実施機関の変遷をみ、工事期間も数次の変更を経て大正6年11月に岸壁、埠頭用地とともに陸上設備を備えた現在の新港埠頭が近代的港湾施設として完成した。
第三期拡張工事
第三期拡張工事は、大正10年帝国議会の協賛を得て、大正10年以降10ヶ年継続事業として、内務省横浜土木出張所による直轄事業として着工した。
主なる計画概要は次のとおりである。
・外国貿易設備(瑞穂埠頭)
・内国貿易設備(高島埠頭、山内埠頭)
途中、震災復旧工事が優先されたため、一時中止を経て大正14年直轄事業として再開された。工事は昭和2年外防波堤を追加、昭和12年度まで延伸し、さらに大さん橋の増補、改造など数次の変更を経て、瑞穂埠頭、高島埠頭一号、二号桟橋、山内埠頭桟橋などが完成したが、第二次世界大戦により中断した。この間、事業は昭和18年に運輸通信省第二港湾建設部、昭和20年には運輸省第二港湾建設部と組織替えがあり引き継がれた。
港・横浜 壊滅す 関東大震災発生
大正12年9月1日午前11時58分44秒、マグニチュード7.9という大震災が関東地方南部を襲った。地震の被害は甚大で横浜港においては、明治22年の第一期修築工事以来30年余に亙って整備された港湾施設が壊滅的な被害を被った。即ち、新港埠頭の岸壁総延長約2000mのうち、やや原型を残したのは約420mのみであり、その他はほとんど海中に没した。大さん橋は全延長495mのうち、第二期海面埋立工事で拡幅したコンクリート構造部を危うく残して、他は挫折陥落し上屋は火災により消失した。また、東水堤・北水堤は何れも開口部に近い約900m、400m間が陥落沈下している。
震災発生と同時に政府は陸海軍による応急工事を急ぎ、港内測量と掃海作業にあわせ、桟橋修理、浮桟橋の仮設、鉄道、橋梁の仮修理等を実施した。
内務省横浜土木出張所は10月21日、震災発生後50日にして復旧工事施工を決定し、直ちに着工、概ね2年後の大正14年9月30日に完成させ世人を驚嘆させた。
一方、上屋、倉庫、道路、鉄道などの陸上施設の復旧工事は大蔵省官房臨時建築課横浜出張所(後に同省営繕管財局横浜出張所に移管)により施工され、昭和6年3月に完成をみている。
戦後の復興と代替岸壁の整備
昭和20年5月には、B29爆撃機による空襲で市街地は壊滅状態となった。
終戦後、すぐに連合軍が横浜港に進駐し、9月2日から新港埠頭・大さん橋・瑞穂・山内・高島の各埠頭及び上屋・倉庫などの港湾施設の90%が接収され、各埠頭の管理運営も進駐軍によって行われることとなった。横浜港の機能は麻痺し決定的な打撃を受けた。
終戦直後の港湾工事は、港湾水域内に多数沈没していた沈船と爆弾等、危険物の引揚げと航路浚渫が主であった。
昭和26年算定の経済自立三ヶ年計画に対応した港湾整備三ヶ年計画により、接収による代替施設として高島3号埠頭・出田町埠頭の整備が行われた。
その後、国の策定した五ヶ年計画(28〜32年)に基づき横浜港拡張計画が策定され、係船岸壁の増設・航路泊地浚渫・防波堤の築造及び臨港施設の緊急整備として山下埠頭の建設工事が昭和28年に着工された。
高島埠頭は、昭和58年に「みなとみらい21」の工事着工に伴い、昭和60年に埠頭は廃止され、33年間に亘る勤めを終えた。
新技術の開発・新材料の採用
山下埠頭は、昭和26年に調印された日米安全保障条約による代替施設として第一バースが昭和28年から30年まで安全保障費で施工されたのがその端緒である。その間、日本経済の著しい成長によって横浜港の港勢も漸次伸び続け、一方、船舶の大型化、接岸施設の不足等から、港湾施設の大幅な増強が迫られ、昭和31年2本の突堤からなる8バースの計画が策定された。
その後、昭和32年に策定された新長期経済計画による港湾整備計画で、昭和34年より10バースの係船岸壁を持つ大規模な埠頭建設が検討され、昭和36年に全体計画10バースで決定された。
施工に当たっては、新技術や新材料を導入し、プレパックドコンクリートによる施工や、外部電源方式による電源防食等を採用した。また、年期共用が望まれる中、鋼材を積極的に活用し、昭和34年には5・6バースにZ型鋼矢板が、昭和36年には7〜10バースに大口径鋼管杭が採用されるに至った。
なお、これらの施設は鋼管杭の腐食により、昭和59年から61年にかけて各バースの再建を行った。
コンテナ時代の幕開け
横浜港の取扱貨物量は、昭和36年に約3500万トンであったものが39年には約5500万トンと大幅な伸びを示し、44年には7100万トンに増大すると推定された。このうち外貿貨物による貨物量は1260万トンである。
当時の横浜港の現有外貿埠頭は、駐留軍使用のバースを除けば大さん橋4バース、高島埠頭6バース、山下埠頭10バースの20バースであり、到底前述の貨物量を取扱うことは不可能であった。
このため本牧地区に外貿の公共埠頭が計画され、38年度に着工したが、昭和36年3月の第1回の計画から法線計画の変更、バースの追加等5回にわたる計画の改訂が行われ直轄工事は45年に完了した。なお、バースの追加等5回にわたる計画の改訂が行われ直轄工事は45年に完了した。
なお、最終的には横浜港埠頭公社や横浜市施工分を含めて61年度に完了した。昭和42年から43年には東京・横浜・神戸の各港でコンテナバースが供用されコンテナ時代の幕開けとなった。その後、船舶の大型化は目覚ましく、岸壁水深は−15mが必要となり、平成10年より再整備が行われ、平成12年度より新たな岸壁として、供用を開始する。
本牧埠頭建設工事の特徴は、急速な整備が要求され、工期の短縮を図るため岸壁の本体には鋼管杭、鋼矢板の鋼材を使用する工法が採用された。
新しい工法としては、C突堤には二建技術陣による「二建型継ぎ手金物」を使用した連続鋼管矢板及び、D突堤には八幡製鉄がドイツから技術導入したH型鋼矢板が採用された。また山下埠頭と同じく急速施工の必要性から岸壁本体に鋼材が使用されており、経年による鋼材の腐食に対応するため、昭和59年度から平成5年度にかけて鉄筋コンクリート補強及びFRP付モルタルライニング防食等による改良補強工事を行った。
国際的に進展する大型コンテナ輸送に対応して
この時期の港湾に於ける状況は、第三次五ヶ年計画が策定され、目標年次である47年の全国港湾取扱貨物量を15億3千万トン、計画期間中の港湾総投資規模を1兆3千億円とし、港湾の総投資規模としては初の1兆円台となった。
この時期の特徴はコンテナリゼーションが急激に進展したことで、昭和44年から47年までに外貿埠頭公団により供用開始されたコンテナバースは東京港4バース、横浜港3バース、大阪港3バース、神戸港6バースの計16バースに上り、港湾取扱貨物量の増勢が激しく、計画策定年(44年)の実績値が概に目標年次(47年)の目標値を超える程であった。
このような状況の下で47年3月に策定された第四次五ヶ年計画は取扱貨物量及び総投資規模をそれぞれ33億8千万トン、2兆1千億円と第三次に比して約2倍前後に設定され、新たに公害防止対策事業が加えられ、港湾における公害防止のための汚泥浚渫が行われるようになった。
しかし、この順調に来た高度成長も、48年10月に勃発した中東戦争による第一次石油危機により、49年度には戦後初めて実質GNPが対前年比0.5%のマイナス成長となった。その後、50年に策定された「昭和50年代前期経済計画」においては、安定成長を基調とした経済の質的充実への構造変換が打ち出された。
なお、この時期の横浜港は外貿貨物に対応するため前記のコンテナバースの他ライナー(定期航路で就航している船)バース及びトランパー(不定期航路で就航している船)バースの整備等大黒埠頭の建設にまい進した時期である。
横浜港の施設は新旧交代期へ
この50年代は第一次、第二次の石油危機の後遺症に伴う税収不足や拡大した支出予算のために、赤字国債の発行が毎年行われ、国家財政の再建が大きな政策目標となった。
そのため、港湾整備事業等公共事業は54年度以降厳しく制御され、56年度より開始された「第六次港湾整備五ヶ年事業」は7兆3千億円の要求に対して、約58%の4兆2千億円と厳しいものであった。
このような中で、55年8月の閣議で「総合エネルギー対策」が決定され、57年には相馬港等のエネルギー港湾の建設が開始された。
一方、42年に設立された京浜、阪神の両外貿埠頭公団は目的がほぼ達成されたため、行政改革の一環として57年3月に解散され、それぞれの埠頭公社に業務が引き継がれることとなった。横浜港においては大黒埠頭一期工事が59年に、二期工事が平成2年に完成している。
また、この時期の社会情勢は、40年代の高度経済成長から50年代の安定成長期へと移行し、国際化、情報化、都市化が進み、成熟社会に向かって歩み始めた。横浜港においても昭和58年に「みなとみらい21」計画が着工し、国際港都にふさわしい快適なウォーターフトントの形成を図るための再開発事業が推進されている。
高度化・大規模化する港湾施設の整備へ
この時期の港湾整備予算は昭和50年代から続く「ゼロシーリング」や「港湾公共事業のCランク格付け」等により伸び悩む中で、民活法の活用や平成2年4月の「豊かなウォーターフトントをめざして」による、物流・産業・生活の3つの機能充実による『総合的な港湾空間の質の向上』と『地域振興のための基盤整備』等の政策目標の下、港湾整備が推進されてきた。
このような中で、平成7年1月に発生した阪神・淡路大震災による港湾の壊滅的な被災を契機に、我が国の港湾事情、特にコンテナ船の大型化に対する対応が東南アジアの諸港に大きく遅れを取っていることがクローズアップされ、この震災以降各港において耐震バースの整備及び高規格・大水深(−15m〜−16m)コンテナターミナルの整備が急ピッチで進められた。
なお、横浜港においてもハブポートとしての国際競争力の強化を目指し水深−15mから−16mの高規格コンテナターミナルの整備及び耐震化を大黒埠頭で2バース、本牧埠頭2バース、南本牧埠頭2バースの計6バースが整備された。
また、客船バースである大さん橋埠頭の再編整備事業が行われ、平成14年度に国際旅客ターミナルが完成している。
(一部時点修正)