埋立の変遷

東京港は、江戸時代から沖合に向かって拡大し続けてきました。特に、高度成長期には大規模な埋立が実施され、港は拡張し、 大きく変貌を遂げました。

埋立マップ
東京港拡張の変遷

 

中世
長禄年間(1457〜1460)

中世のころ、現在の中央区・江東区の大半は海で、日比谷周辺も日比谷入江と呼ばれる海だった。日比谷という地名は、海苔(のり) を養殖(ようしょく)させるときに使う木の枝の「ヒビ」に由来している。

中世~江戸初期
~寛永9年(1632)

徳川家康は、江戸に入るとすぐに日比谷入江を埋め立てた。その後も、神田山を切り崩し、日本橋浜町から新橋までの埋立を行った。江東方面の埋立は、慶長(けいちょう)元年(1596)から始まった。

江戸初期~江戸末期
~慶応元年(1865)

寛永(かんえい)年間(1624~1644)以降、隅田川河口の小島が徐々に埋め立てられ、越中(えっちゅう)島地域が形成された。火災の瓦礫(がれき)を処分するため、現在の江東区東陽(とうよう)あたりの海面を埋め立てて、新たに土地が開発された。幕末には品川台場が建設された。

江戸末期~明治末期
~明治42年(1909)

東京港の水深を確保するため、浚渫(しゅんせつ)工事が行われた。この工事で発生した土砂によって、佃島(つくだじま)、月島、勝どきが埋め立てられた。

明治末期~戦後
〜昭和26年(1951)

隅田川河口の航路浚渫による土砂で、月島、芝海岸通り、芝浦一帯の埋立が行われた。明治33年(1900)4月から、ごみの処理を東京市が統一して行うことになり、江東区塩浜、枝川が埋立地となった。大正12年(1923)の関東大震災の瓦礫処理で江東区豊洲(とよす)などが埋め立てられた。京浜運河の開削に伴う羽田空港地先の埋立は昭和14年(1939)に始まったが、第二次世界大戦で中断した。戦後、GHQが東京港の埠頭(ふとう)全域および臨港地域の大部分を接収したため、埋立事業も中断された。

高度経済成長期
~昭和46年(1971)

東京港修築工事によって、豊洲埠頭と品川埠頭が造成され、晴海埠頭が拡張された。東京都の人口、産業などの集中化に伴う住宅、環境、廃棄物処理に対処するため、江東区辰巳(たつみ)、東雲(しののめ)、有明(ありあけ)、台場(だいば)の埋立が行われた。さらに、東京港の物流機能を拡張させるため、大井コンテナ埠頭・青海(おうみ)コンテナ埠頭が造成された。ごみ処分場として、江東区潮見、夢の島が造成された。

高度成長期後~昭和末期
~平成元年(1989)

昭和46年(1971)以降は、江東区若洲、中央防波堤内側、羽田沖、中央防波堤外側がごみ処理場として埋め立てられた。都市部から発生する土砂類や東京港の浚渫工事から発生する土砂を埋立地の埋立材や盛土材として活用した。

平成元年(1989)~現在
~平成17年(2005)

羽田沖埋立地の西側が埋め立てられ、国際空港として利用される。さらに中央防波堤外側廃棄物処理場の東側が埋め立てられた。新海面処分場が最後のごみ処理場となっている。

 

足立区立郷土博物館「隅田川流域の古代・中世世界」、2001,内藤昌「江戸と江戸城」、鹿島出版会、1992,東京港開港50周年記念事業実行委員会「東京港きのう・今日・あした」、1991,東京都港湾局「東京港史第2巻資料」、1994,東京都港湾局港湾経営部振興課監修「東京港ハンドブック」、一般社団法人東京都港湾振興協会、2005.10,大日本帝国陸地測量部、1:20000 地形図東京近傍「洲崎」「東京南部」「大森」「川崎」、明治42年測量,航空写真(昭和35年、昭和41年、昭和45年、昭和55年、平成2年、平成5年、平成16年)より作成。