■設計と施工■
東京湾海堡建設計画の初めから活躍したのが陸軍技師の西田明則です。とくに難工事となった第三海堡工事では、明治25年(1892)4月から明治31年(1898)12月までは西田、明治32年(1899)4月から40年(1907)11月までは陸軍技師の伴宜、それ以降の防浪堤建設工事は陸軍技師の田島真吉が計画・設計・施工全般の担当者でした。なお、実際の施工に当たったのは、日本土木会社・大倉土木組・藤田組などであり、日本土木会社・大倉土木組で工事に従事したのは金森鉦弥・今井善八郎・小島喜作・中村宗太郎らでした。
■西田明則■
西田は、岩国(山口県)に生まれました。江戸時代の末、文政10年11月23日(1828.1.9)のことです。西田家は下級武士とはいうものの岩国藩の普請方・測量方を勤めており、明則の祖父は錦帯橋の修理を担当する技術者でした。明則は安政3年(1856)、29才で家督相続をしており、藩の普請方・測量方を受け継ぎました。明則は、仕事がら、和算に長じており、それが明則の技術の基本となっていたのではないかと推測されます。明則はまた、維新前に漢字廃止論を唱え、英学を学んだと伝えられています。きわめて革新的な人だったようです。明治4年(1871)、44才の時、明則は山県有朋に招かれ、上京して兵部省に勤務することとなり、明治5年(1872)、工兵大尉になりました。工兵大尉となった明則は、建築家として活躍し、東京鎮台(軍団)の兵営、士官学校、靖国神社の建築などに従事します。
明則が東京湾海堡に関わるのは、明治13年(1880)、陸軍参謀局の海岸防御取調委員になってからです。明治14年(1881)10月26日には、富津海堡(第一海堡)を含む湾口砲台の工事費の積算を行い、明則は山県参謀本部長にあて、『東京湾口砲台建築費御下付ニ付上申』を提出しました。 大正11年(1922)の『西田明則君ノ紀念建碑趣意書』では、「氏は東京湾海堡工事完成のため、一身の栄達をなげうち、陸軍技師となった。海堡基礎の構築に際しては、堤頂が海上に現れるまでは毎朝3時、4時に横須賀の自宅を出て、帰宅は深夜11時に及ぶことがしばしばであった。その間、小船に乗って石材運搬船を指揮し、台風の被害に遭うことも数知れなかった。」と、その刻苦勉励ぶりをたたえています。また、ときには自ら潜水服を着て海底の基礎を検査することもあったと伝えられています。 明則は陸軍技師として、あるいは嘱託として、明治36年(1903)、76才まで海堡建設に従事しました。残念なことに、明則は明治39年(1906)5月21日、78才で亡くなり第三海堡の完成を見ることはできませんでした。
横須賀市の聖徳寺のしんばか(新墓)に西田家の墓地があり、「海堡を望み見ることができる場所に墓を建てて欲しい」という明則の遺言に従い、その一隅に明則の墓が東京湾海堡を望んで建っています。
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「西田明則
君ノ紀念建碑計画書」
大正11年(1922)
西田実氏所蔵
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「西田明則君之碑」
明則の偉業をたたえるため、横須賀市の衣笠公園に「西田明則君之碑」が建立され、大正12年(1923)、山梨陸軍大臣が列席して除幕式が挙行されました。
2001.2.23撮影
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