東京湾海堡の歴史
■海堡建設まで
■江戸湾海防計画■
![]() 渡辺華山:「江戸湾海防計画図」 天保10年(1839) 佐藤昌介:「渡辺華山「諸国建地草図」について」 |
![]() 江川太郎左衛門英龍 自画像 嘉永3年(1850年)頃 (財)江川文庫所蔵 |
そうこうするうちに、嘉永6年6月3日(1853.7.8)、米国のペリー提督が率いる東インド艦隊が浦賀に来航しました。もはや一刻の猶予もなりません。
■品川台場■
ペリー来航後、幕府から再び江戸湾海防を命じられた江川太郎左衛門は、観音崎〜富津岬の防護線とともに江戸の最後の護りとして品川台場の建設を提案しました。これに基づき、江戸湾最初の人工島が築かれることとなったのです。ただし、水深は1.9〜3.5mの浅い海中でした。台場建設は、江川の設計・施工監督のもと、わずか2年足らずの突貫工事で行われ、安政1年(1854)、5個の台場が完成しました。品川台場は、結局、実用に供されることなく終わりましたが、3番台場・6番台場が現存し、東京臨海副都心のウオーターフロントの一部として都民に親しまれています。
3個の台場の撤去の際は、頑健な造りのため、大変な苦労をしました。幕末当時の優れた建設技術を物語っています。
![]() 「品川台場配置図」 嘉永6年(1853)7月(推定) 東京都:『東京市史稿市街篇第四十三』 1956.3.30 |
![]() 現在の品川第三台場 2000.11.11撮影 |
■東京湾海防計画■
![]() 「東京湾口防御図」 明治23年(1890)(推定) 『現代本邦築城史第二部第一巻 東京湾要塞築城史附録』 国立国会図書館所蔵 |
明治から大正にかけて陸軍元帥として陸軍に君臨した山県有朋(1838〜1922)は、明治4年(1871)、『軍備意見書』を提出し、日本列島の要塞化を主張しました。これを実現するため、山県はお雇い外国軍人を活用しました。明治6年(1873)には、陸軍省のお雇い外国軍人でフランス国の陸軍中佐マルクリーに東京湾を視察させ、『我国海岸防御法案』を提出させました。続いて明治8年(1875)には、フランス国の陸軍中佐ミュニエー、工兵大尉ジュールダン、砲兵大尉ルボンに『日本国南部海岸防御法案』を提出させました。この中では、第一防御線(観音崎〜富津岬〜猿島)、第二防御線(品川付近)を護るための砲台建設を提案しています。これらはいずれも海岸や島に砲台を築くものです。
■東京湾要塞の建設■
明治13年(1880)、陸軍省は観音崎第一砲台と第二砲台の建設に着手しました。これは明治時代最初の砲台建設工事でした。その後、東京湾口部には、首都東京と横須賀軍港を護るため、24の砲台が造られていきました。これらの砲台郡は、東京湾要塞といわれています。第一海堡、第二海堡、第三海堡は、東京湾要塞の中でも観音崎〜富津岬〜猿島の防御線をより強固にして、敵艦の東京湾の侵入を阻止する目的で海中に築造された砲台です。一方、陸軍の内部には、海堡ではなく、外国軍艦の侵入を防ぐための湾口堤防の建設を唱える声もありました。この間には、明治13年(1880)、3〜4トンの石で堤防を築き、波浪に対する安定実験を行ったりしています。お雇い外国軍人の意見を鵜呑みにせず、色々な検討を行っていることが分かります。ともあれ、幕末の江川計画に始まり、明治初期のお雇い外国軍人の計画、陸軍内部のさまざまな検討を経て、ようやく東京湾海堡の建設が始まるのです。
■東京湾海堡建設にたずさわった人たち
■設計と施工■
東京湾海堡建設計画の初めから活躍したのが陸軍技師の西田明則です。とくに難工事となった第三海堡工事では、明治25年(1892)4月から明治31年(1898)12月までは西田、明治32年(1899)4月から40年(1907)11月までは陸軍技師の伴宜、それ以降の防浪堤建設工事は陸軍技師の田島真吉が計画・設計・施工全般の担当者でした。なお、実際の施工に当たったのは、日本土木会社・大倉土木組・藤田組などであり、日本土木会社・大倉土木組で工事に従事したのは金森鉦弥・今井善八郎・小島喜作・中村宗太郎らでした。■西田明則■
西田は、岩国(山口県)に生まれました。江戸時代の末、文政10年11月23日(1828.1.9)のことです。西田家は下級武士とはいうものの岩国藩の普請方・測量方を勤めており、明則の祖父は錦帯橋の修理を担当する技術者でした。明則は安政3年(1856)、29才で家督相続をしており、藩の普請方・測量方を受け継ぎました。明則は、仕事がら、和算に長じており、それが明則の技術の基本となっていたのではないかと推測されます。明則はまた、維新前に漢字廃止論を唱え、英学を学んだと伝えられています。きわめて革新的な人だったようです。明治4年(1871)、44才の時、明則は山県有朋に招かれ、上京して兵部省に勤務することとなり、明治5年(1872)、工兵大尉になりました。工兵大尉となった明則は、建築家として活躍し、東京鎮台(軍団)の兵営、士官学校、靖国神社の建築などに従事します。明則が東京湾海堡に関わるのは、明治13年(1880)、陸軍参謀局の海岸防御取調委員になってからです。明治14年(1881)10月26日には、富津海堡(第一海堡)を含む湾口砲台の工事費の積算を行い、明則は山県参謀本部長にあて、『東京湾口砲台建築費御下付ニ付上申』を提出しました。
大正11年(1922)の『西田明則君ノ紀念建碑趣意書』では、「氏は東京湾海堡工事完成のため、一身の栄達をなげうち、陸軍技師となった。海堡基礎の構築に際しては、堤頂が海上に現れるまでは毎朝3時、4時に横須賀の自宅を出て、帰宅は深夜11時に及ぶことがしばしばであった。その間、小船に乗って石材運搬船を指揮し、台風の被害に遭うことも数知れなかった。」と、その刻苦勉励ぶりをたたえています。また、ときには自ら潜水服を着て海底の基礎を検査することもあったと伝えられています。
明則は陸軍技師として、あるいは嘱託として、明治36年(1903)、76才まで海堡建設に従事しました。残念なことに、明則は明治39年(1906)5月21日、78才で亡くなり第三海堡の完成を見ることはできませんでした。
横須賀市の聖徳寺のしんばか(新墓)に西田家の墓地があり、「海堡を望み見ることができる場所に墓を建てて欲しい」という明則の遺言に従い、その一隅に明則の墓が東京湾海堡を望んで建っています。
![]() 西田明則 陸軍工兵少佐 小坂丈予氏所蔵 |
![]() 山県有朋陸軍大将 イラストレイテッド・ロンドン・ニュース 1894.10.6号 金井圓:『描かれた幕末明治』 1986.12.15 |
![]() 晩年の西田明則 西田実氏所蔵
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![]() 詩人の岩野泡鳴は、明則をモデルにした『瞑想詩劇 海堡技師』(明治38年11月28日発行)を発表しています。 冥想詩劇「海堡技師」の表紙 国立国会図書館所蔵 |
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「西田明則 君ノ紀念建碑計画書」 大正11年(1922) 西田実氏所蔵 |
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「西田明則君之碑」 明則の偉業をたたえるため、横須賀市の衣笠公園に「西田明則君之碑」が建立され、大正12年(1923)、山梨陸軍大臣が列席して除幕式が挙行されました。 2001.2.23撮影 |
■大乗寺(富津市)の碑■
海堡建設に際しては、技術者だけではなく、多数の人夫が施工に従事しました。中には、痛ましい犠牲者も出ています。明治34年(1901)に建立された富津市の大乗寺の「遭難者追悼之碑」は、第二・第三海堡工事で死亡した6人の人夫の追悼碑です。
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| ●西田明則の墓 (聖徳寺新墓/横須賀市) 2000.10.19撮影 |
●遭難者追悼の碑 (大乗寺/富津市) 2000.11.7撮影 |











